私的に史上最高のアニメ作品の一つ、Steins;Gate。以前、不安半分で0を観たら素晴らしい出来だったので、こちらも期待していたのですが、残念でした…。
※以下はネタバレを含みます。ご注意下さい。
最初の方は面白かったです。
特に牧瀬紅莉栖ファンの私にとっては。
酔っぱらってデレる紅莉栖は可愛すぎる!!
いつもの@チャンネラー振りもツンデレも全開ですし、慌てたときに着替えるのも忘れて外に飛び出すシーンなど、最高です。
紅莉栖は堪能できました。
ラボメンの面々も相変わらずの良いキャラクターで、素晴らしい。
映画仕様の美しい映像と音楽でそれが見られるのは幸せです。
でも、それだけでした。
シュタインズ・ゲートの魂である、脚本と設定がダメ。
これでは全く意味がない。
まず根本の設定からしておかしい。
ネタバレを読む方には今更かも知れませんが、一応説明しておきますね。
シュタインズ・ゲートの重大な設定として「世界線」という概念があります。
人がどういう行動を選択するかによって、世界は変わっていきます。それは選択肢の数だけ、存在する可能性がある世界があるということです。
例えば、自分が朝食にパンを食べるかご飯を食べるかの選択肢があったとすると、食べる前には「自分がパンを食べた世界」と「自分がご飯を食べた世界」の2つの世界が可能性としてあり得ます。そして、それは実際にどちらかを食べた時点で確定します。
この「可能性としてあり得たもう一つの世界」を表すのが世界線です。
シュタインズ・ゲートは、この「世界線」の概念によって「タイムマシンで過去を変えたらどうなるのか」という問いに答えました。すなわち、過去を変えたら違う世界線の世界になるのです。これは画期的なアイディアだと思います。
アニメでは、岡部倫太郎が椎名まゆりと紅莉栖を救うためにタイムリープして過去を変えることで、世界線の移動を何度も繰り返しました。また、天音鈴羽も第三次世界大戦で悲惨な戦闘が続く未来からタイムマシンで現代にやって来て、世界線を変えようと苦闘していました。
そして、何度も絶望しては乗り越え、やっとの思いで全員が助かる理想の世界線、「シュタインズ・ゲート世界線」にたどり着くことができたのでした。
それが。
この映画では、岡部が現実を認識できないから存在が消え、最初から岡部が存在しなかった世界になってしまいます。それを防ぐために、今度は紅莉栖が過去に戻る…というのがメインストーリーなんですが…。
そんな馬鹿な。
本当にシュタインズ・ゲートを知っている人が作ったのかと問い詰めたくなるような話です。
なぜなら、岡部の存在が消えるということは、シュタインズ・ゲートの世界設定では「岡部が存在しない世界」という世界線になるはずです。ですが、過去を変えていないのに現在の世界線が変わることはあり得ません。岡部が現実を認識するかどうかなんて、世界線に影響を与える事象ではないのです。
つまり、シュタインズ・ゲートという世界の大前提と矛盾するんです。
物語の一番の核となる部分で整合性が取れてないって、どういうことやねん…。
一番大事な部分がこうですから、他も推して知るべし。
つまるところ、ツッコミどころ満載です。
「タイムマシンで過去に行って岡部に現実を認識させる」のが解決策らしいのですが、そもそも岡部が最初から存在しない世界で過去に行っても岡部おらんやん?
紅莉栖は岡部が鳳凰院凶真を初めて名乗った日に行って現実を認識させるんですが、そもそも何でその日なの?それに、どうやってその日を知ったの?
当時の岡部にとっては、紅莉栖は知らないお姉さんに過ぎません。知らないお姉さんから変な科学者の話を聞かされてキスされたら現実と認識するってのは説得力ゼロでしょ…。
「デジャヴュが他の世界線の記憶だ」というのは今作で唯一面白かった設定ですが、皆岡部の記憶持ち過ぎ。誰も飲まないドクターペッパーを買ってくるとか、誰かが名付けた刀をもらったとか、タイムリープマシンの作り方が分かるとか。最初からいない人に対してのその言動って、もはやホラーでは…。
鈴羽は何しに来たの?岡部を助けに?鈴羽にとっては全く知らない、存在しない人なのに?しかも、それをすると過去改変になって世界線が移動しちゃうのに?
個人的には、これをシュタインズ・ゲートとは認めたくないです。
アニメのあの神のような脚本はどこへ行ったのか…。
更に言うと、これはアニメの続きではなくて映画ですから、これで一つの作品として完結しなければいけなかったと思います。
アニメを見ていない人がこれを見て理解できたか、楽しめたかというと難しいのではないでしょうか。
そういうところの思慮が足りていないところを見ても、手を抜いて作ったのではないかと思えてなりません…。
本当に残念な作品となってしまっているという感想です。